深夜0時、『いいお母さん』というドレスを脱いで

The Velvet Secret 編集長コラム。深い緑のベルベット背景。「優雅な悦びを嗜む大人のための哲学」の文字。AYAKA編集長による女性のウェルネスと生き方に関するエッセイ。

リビングの時計が、午前0時を回る音だけが響いている。

テーブルの上には、明日の朝食のためにセットされた食器。ソファの隅には、畳みかけの洗濯物の山。それらは、私が今日一日、どれだけ「誰かのために」生きたかを示す、勲章のような、あるいは鎖のような証拠品だ。

家中の明かりを消し、寝室へ向かう廊下を歩く。
家族の寝息が聞こえる。
愛しい音だ。
けれど時々、その愛しさに、肺が押しつぶされそうになることがある。

ここには「私」がいない。 いるのは「ママ」であり、「妻」であり、「しっかり者の誰かさん」だ。

だから私は、寝室の扉を閉め、鍵をかける。 それは、世界で一番短い旅の始まり。

Ⅰ. 名前を奪われた私たち

いつからだろう。自分の下の名前で呼ばれることに、微かな違和感、あるいは懐かしさを覚えるようになったのは。

私たちは、朝起きた瞬間から「いいお母さん」という、重たくて美しいドレスを纏(まと)う。 笑顔を絶やさず、家族の機嫌を先回りして読み取り、自分の感情は引き出しの奥へ丁寧にしまう。それは尊い仕事だけれど、そのドレスの下で、生身の肌は呼吸を忘れていないだろうか。

ふと鏡を見ると、そこに映るのは疲れ切った「機能としての女性」。 けれど、心の奥底では、まだ熱を持った「個としての私」が、小さく声を上げている。

「私を見て。私に触れて。私がここにいることを、思い出して」

その渇きは、家事の達成感や子供の成長だけでは、決して潤せないものだ。

Ⅱ. 秘密の鍵を回すとき

鍵をかけた部屋の片隅、引き出しの奥から、私は「秘密の相棒」を取り出す。 それは、滑らかな曲線を描く、美しいシリコンの小瓶のような道具。

これを手に取ることを、どうか「逃避」と呼ばないでほしい。 これは、私が私自身の輪郭を確かめるための、神聖な儀式なのだから。

スイッチを入れると、指先に伝わる低い振動。 衣服を緩め、冷え切った心と身体の隙間に、その温もりを滑り込ませる。

誰の目も気にしなくていい。誰の評価もいらない。 ただ、自分の身体が「心地よい」と感じる場所を探し、愛でていく。 吐息が漏れるたび、昼間纏っていた重たいドレスが、一枚、また一枚と剥がれ落ちていく感覚。

そこにあるのは、妻でも母でもない。ただ快楽に正直で、無垢な一人の女性。 自分自身との濃密な対話(セルフケア)だけが、置き去りにしていた「私」を、この世界に引き戻してくれる。

Ⅲ. 満たされた器だけが、愛を溢れさせる

嵐のような悦びが過ぎ去った後、訪れるのは深い静寂だ。 これを「賢者タイム」なんて無粋な言葉で片付けたくはない。それは、凪(なぎ)だ。

不思議なことに、自分自身を十分に満たしてあげた後だと、あんなに重たく感じていた明日の予感が、少しだけ愛おしく思える。

「自分の機嫌は自分で取る」

言葉にするのは簡単だけれど、多くの女性がそれを後回しにしている。 けれど、枯渇した器からは、誰かに注ぐ水など一滴も出てこないのだ。

貴女が貴女自身を愛し、満たされた器になったとき初めて、溢れ出たその余剰分が、家族への本当の優しさになる。 だから、この深夜の密やかな時間は、決して罪深いことではない。むしろ、明日もまた笑顔でいるための、必要なメンテナンスなのだ。

Ⅳ. エピローグ

サイドテーブルに「相棒」を戻し、私はまた布団に潜り込む。 隣で眠る夫の背中が、さっきよりも少し温かく見える。

もし今夜、あなたが孤独を感じて眠れないのなら。 どうか思い出してほしい。 「いいお母さん」のドレスを脱いだその下にいる、素肌のあなたこそが、何よりも美しく、守られるべき存在だということを。

おやすみなさい。愛しい貴女。

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